しみじみと
三日間共に過ごした人がお山を出た。
あまり意識はしていなかったものの、別れの時間が近づくにつれ、僕は寂しさを漂わせていたらしい。
しかしながら、僕はこの「1人山の小屋にいる」ことを、この状況を、とっても嬉しく望んでいるような気がしてしょうがない。自分にとって、この生活はすごく大切な時間だと、どこか深いところで、あるいは真ん中、芯のところで感じているからなのだろう。
いつからか受動的な僕は、よく優しいと言われる。それは、僕はあまり否定しないからなのだろう。良い悪いなんて人それぞれだと思っていて、そこは共感だったり、ただ認識することで、良い悪いを感じない。というか、それを含めて、広義な意味で良いと感じてしまう。
この感覚をいい意味で壊したい。
また、僕は人の素適なところをみつけるのが得意なのかもしれない。いや、そもそも、素適な人が周りに多いのかもしれない。
どっちにしろ、そう感じてしまう今は、とても幸せに溢れているなあ思いながら、いや、そうじゃないんだと、モヤモヤを抱えている。
田んぼの水路を眺めながら、オタマジャクシの様子を見ていた矢先、目の前が真っ白に輝いた。桜だった。
標高の高さなどで、待ちに待ったお山の桜は、ようやく咲き始めていた。
凛としていて、僕は1人じゃないことを、教えてくれた気がした。
たくさんの生命に満ち溢れ、
今日も、彼らとの時間を感じていく。