メモ 2017 6/5
僕は、吹っ切れたいのかもしれない。
僕は好きな人がたくさんいる。
比較とかもなくて、素敵な人が、愛おしいと思ってしまうような人が、たくさんいる。たくさん出会えて来た。なんて喜ばしいんだろう。好きになる行為は、とっても気持ちが良いのもあるし、本当に素晴らしいことだと思っている。これは、僕の中ですごく大切なこと。好きな人は、これからもどんどん増えていくのだろう。好きな人は好きな人のままで、ずっと僕の中に存在していて欲しい(生きていて欲しい)。そんなことを思う。
いま特に好きな人は、付き合っている人がいる。それらをSNSで見てしまう時、すごく、心がぎゅっと、狭くなるようになる。喉が痛くなる。
けど、すぐにそれは変化して、モチベーションに変わる。はずなんだけど、今回は変わらないかも。そういう好きだったみたいだ。もっと、この気持ちを、一言に言えば、悲しい?みたいな気持ち?んーもう、一言では言えないけど、こういう気持ちを僕に叩き込みたい気がした。
もっと、絶対的な何かで、僕の行く手を遮って欲しいのか。そっちの方が、いい気がするんじゃないか。今までの熱を、一気に冷やしたい。蒸気とともに、シューって空気に溶けて欲しい。それを、感じたい。
でも、感じたくない。でも
いま僕は、吹っ切れたいのかもしれない。
今日はもう1つ吹っ切れたことがあるから、そのノリなのかもしれない。
ただ、僕はあの人が好きだ。けど、好きだからこそ、離れたい。離れないと、なんかもう、キツい。
あなたの幸せを、心から祈りたい。けどその前に、僕の幸せを心から祈りたい。いや、掴みにいきたい。
丸裸な生身の僕になり、誰のものでもない、誰も愛そうとしない僕が、どんな僕なのか知りたくなってきた。
僕は僕がわからない。
でも一生わからなくていい。
その代わり、ずっと僕と一緒に生きたい。
はぁ
気持ち良さと切なさ
踊子草が、黄色くなっていた。
日中もカエルの声がする。
とても嬉しい気持ちになった。
お昼にも彼らの存在を確認できる、
認識できること。
それが僕の中で彩りに変わり、
嬉しく思ったのかな。
桑野葉っぱは本当に不思議な形だ。
この変化を見ていたい。
草刈りをして、代掻きをしたお山。
それもまた美しかった。
気持ち良いのが当たり前で、
その先の気持ち良さを探そうとしている僕。
なんて贅沢なのだと思ってしまう。
風や小川の流れる音、鳥のさえずり、草木と太陽、桑の実の形、藤の紫、育つ稲。
空を見上げれば、岩手山が少し顔を出し、青空に映える雲が壮大だ。
美しくって、たまらない。
こうやってその場に立ち止まるだけで、
僕はたまらなくなる。
立ち止まるからこそ、
歩きたい方向がわかる気がした。
僕は座り込む。
ミクロな視点がたくさん見えてくる。
気づかなかった存在や営みに出くわす。
これも僕には大切なこと。
でも、なぜか切ない。
photo by dali
なんだかいい日だったです
ハルジオンが咲いていた。ハルジオンって僕らが呼んでるだけで、君たちの本当の名前は、名前の概念すらないのかもしれず、言葉とは違う何かを生きているのかもしれないけれど、僕たち人間の視点で、ハルジオンって呼ぶね。
君は西洋ナバナ。西洋から来たのかな?起源なんて、ごちゃまぜでもいいのかもね。いい悪いなんてないのかもね。
西洋タンポポだ。君もか。クマザサもいるね。ギシギシも、名前のわからない君もいる。たくさんの生き物が僕の周りに存在していて、目には映らない存在を想像するだけで、ワクワクする。
この土なんかも、生物だらけなんだよな。
この土は昔の人が田んぼとして作ってきた土だとすると、僕らもなんら生物と同じというか、景観や生態系を作っているんだなって、嬉しくなるよ。(人間は破壊してる方だと思ってしまうだろうけど。思わないのもどうかと思うけど。)
そして、この生物、生命たちがいて、僕がいて、そんな今は最先端なんだな。地球が生まれてから最先端な今を、共に生きているんだよね。すごいことだと思うんだよね。でも、僕も彼らも、死んでしまう。死ぬことは、当たり前のこと。唯一の事実。僕ら側から見た事実。
もっと先の未来では、時間なんて移動できるのかもしれないけど。
僕らは、今という時間を積み重ねて、この時代に、彼らと一緒に死んでいくひとつの存在なんだよね。それは素晴らしいことだと思う。けど、なんだか切なさを感じる。でも、その切なさを、喜びたいと思う。
僕らの生きる目的は、なんなのだろうか。今の僕の中の答えは、たくさん感じること。幸せになるとか、ちっぽけだ。そんなの幸せに決まってる。そんな言葉なんかにしないで、もっとその「幸せ」とか、「愛」「夢」「喜び」とかの中に詰まったものを、その言葉を超えて、感じたい。それに落ち着くのは、もう当たり前のことなんじゃないかな、今の僕的には。だから、その中の、その先の何かわからないものを、掴みにいきたい。そして、何度も愛に辿り着きたい。それまでとは違った僕だけの愛
【今日出会ったもの。】
田んぼ見てたら虹に気づいた
柳絮によって地面がふかふかになる。
彼の死に様はとてもかっこいい。
もやもやふつふつ
しみじみと
三日間共に過ごした人がお山を出た。
あまり意識はしていなかったものの、別れの時間が近づくにつれ、僕は寂しさを漂わせていたらしい。
しかしながら、僕はこの「1人山の小屋にいる」ことを、この状況を、とっても嬉しく望んでいるような気がしてしょうがない。自分にとって、この生活はすごく大切な時間だと、どこか深いところで、あるいは真ん中、芯のところで感じているからなのだろう。
いつからか受動的な僕は、よく優しいと言われる。それは、僕はあまり否定しないからなのだろう。良い悪いなんて人それぞれだと思っていて、そこは共感だったり、ただ認識することで、良い悪いを感じない。というか、それを含めて、広義な意味で良いと感じてしまう。
この感覚をいい意味で壊したい。
また、僕は人の素適なところをみつけるのが得意なのかもしれない。いや、そもそも、素適な人が周りに多いのかもしれない。
どっちにしろ、そう感じてしまう今は、とても幸せに溢れているなあ思いながら、いや、そうじゃないんだと、モヤモヤを抱えている。
田んぼの水路を眺めながら、オタマジャクシの様子を見ていた矢先、目の前が真っ白に輝いた。桜だった。
標高の高さなどで、待ちに待ったお山の桜は、ようやく咲き始めていた。
凛としていて、僕は1人じゃないことを、教えてくれた気がした。
たくさんの生命に満ち溢れ、
今日も、彼らとの時間を感じていく。
刻まれていく出会いと時間
僕はメモをよくとる。
昨日感じたこと、感じたままのメモを、生々しく残しておく。
夜、岩手の紫波サービスエリアからヒッチハイクし、有難いことに3台で、昨日名古屋に着いた。
名古屋駅から8キロほど歩き実家に着いた。そんな日のメモ。
優しさのシャワーを浴びたような、そんな時間だった。#ヒッチハイク
思った通りにやれ!!とことんやれ!そうやって、背中を押してくれる人に出会える。本当に、ありがたい。
愛ちゃんが、素適な人と出逢った。いいね!!あなたの僕に向けていた素適な笑顔が、そこに見られて嬉しく思う。
僕は、燃えているか
僕の命は、燃えているか
燃やしていこう
表現していこう
腹からよじれ蠢(うごめ)かせ、粉々に、強固に、僕で在れ
愛する喜びを、愛を超えて
僕の世界を、僕のものに、僕に狂え。
ああ、僕なんていなくなれ
僕の薄れゆく気持ちとともに、彼女の気持ちも薄れゆく。そんなものさ。
「自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ」
ぼくは守れているだろうか
いや、壊して、作って、穴を開けて、舐めてみて、ぼくの感受性を解き放す 否、解き放っている
よりリアルに、マジな、オレを
もう一度ぼくに投げ掛けよう。
そのまま行け。突っ走れ 嘆け苦しめ愛しまくれ
そんなことを思う、名古屋、伏見間。
(今も不思議な気持ちで、嬉しさや、自分と向き合うことを、余儀なくされる感、そんな不思議な感覚を味わっている)
額縁屋の女性と仲良くなった。
仲間とともに夏は会津でインスタレーションをしてるらしい。美しい女性だった。
(この絵の額縁を買いに)
都会に佇むケヤキの木
僕は白川公園のケヤキの様に生きられないなって思った。思ってしまった。
こんな都会の真ん中を、生きていくこと。
堂々と生きている様に見え、何か尊敬の眼差しで眺めていた。
僕はそれを避けているのか。だから岩手にいるのかもしれない。
ホームレスのしんどうさん。
あったかいですね!そうやって始まった会話は、とても自然で心地よかった。
今ある生活を、しあわせであると言っていた。
どこかを見つめるその目は、何か美しいものをみているかの様に澄んでいた。
夕陽に染まるケヤキが、とても綺麗だった。
しんどうさんは、雨の日はこのベンチで生きているらしい。
このベンチの後ろ側には、楽園が広がっていた。表現者が住んでいた。
今の僕には、今日のたくさんの出会いが刻まれている。
生命の輝き
(生命の)存在を認識する という行為、営みは、豊かさにつながると思っている。豊かな今を生きることにつながる。そう思っている。
身の回りに目を向けると、生命に溢れ、たくさんの宇宙がそこにあることに気づく。それぞれの事情や、然らしむるさま、そんなものが、存在美となって僕の前に現れる。
「地球の素晴らしさは生命の輝きにある」
レイチェル・カーソンの言葉で、今ど真ん中に好きな言葉だ。
僕はたびたび、生命の存在を認識したあと、意識が地球へと広がっていくのを感じる。
僕も彼らと同じように今生きている。たくさんの生命に囲まれて、生命だらけの地球の上に、生命の営みにより、今生き、生かされている。
そんなことを考えると、どうしようもないくらい今が輝かしくて、嬉しくて、一瞬にして僕の見る世界は彩り、そして愛に溢れていくような感覚を覚える。地球に今いる喜びを、噛み締めているように。
そして、地球という大きな生命として、ひとつである。そう感じずにはいられない。
このような感情(状態)は、センス・オブ・ワンダーの例えである『喜び以前の純粋状態』ならぬ、『喜び以降の純粋状態』に包まれているということだと思った。
感性を認識し、僕の知性が入り混じった、その先の状態。
僕らは言葉の生き物であるので、感覚を"喜び"のような言葉に当てはめてみたけれど、当てはめたところで意味をなさない、必要のない、そんな状態。
喜び以前以降どちらも、僕は心の底から大切にしていきたい。そう改めて思った。
地球の素晴らしさは、生命の輝きにある。
僕らも、輝き合う世界へ
#地衣散歩 @安曇野
安曇野で出会った地衣類を紹介します。
生活感丸出しなプライベートを覗いてしまった感じ。
荒れ果てた地球みたい。けれど、そこにも美しさがある。今を咲き乱れる花 そんな感じ。
繊細な造形美。
海の中みたいな、星雲みたいな、そんな姿に惚れる。
彼らが創りだす世界、そして彼らに、憧れのようなものを抱く。
Life is Art .
生きているということ。
何か人工的で、少しもやもやしてしまう。なぜだろう
"美"という言葉を超えた
いや、"美"という言葉以前のもの。
それは センスオブワンダー という感性
#喜び以前の純粋状態
彼らの世界
#色違い #双子
ユニバース
ここは宇宙
彼らの世界
雨が降ると、より生き生きするのだろう。そんな景色を彼らを、またいつか見にいきたい。
壁面緑化
自然な味わいが落ち着く。
黄色い侵略者たち
"色を持つ"ということに、誇らしさを感じた。確実に色付けていく彼らの営み。
僕が地衣類を探して散歩しているというよりは、地衣類が人間に見られている。そんなことをふと思う。
僕は安曇野がすごく好きです。