18.1.16 ニート生活
お山生活を経て、今は実家で絶賛ニートをしている。
そんな生活をしていると、働きたい欲 みたいなものがうまれる。人の役に立ちたいというか、そんな欲求がうまれる。
ニート歴1ヶ月も経っていないけれど、
なかなかにメンタルがやられる日々を過ごしている。
そんな姿見せられたら…ってなる#nature #naturelovers #green #leaves #leafs
僕は植物が好きで、よく写真を撮っている。
けれど、何もしていない今 (いや、絵を描いたりご飯食べたり生活しているけど…) に自信がない僕には、煌びやかに、美しく僕の目に映った彼ら(植物=自然)を前に、さらに自信を無くす状態に陥っている。
好きな友達と電話していても、楽しいはずなのに、
「そんなに優しく喋りかけないでくれ。
そんなに楽しそうに話さないでくれ、僕は、今とても醜いんだ。」
なんてメモをしてしまうくらい、落ちてしまっている。
でもそんな中、SNSは良いなぁって思うことがある。
例えば 僕の好きな坂爪圭吾 さんのブログは、僕を良い感じにしてくれる。
なんていうか、彼の言葉、そして生き方そのものが、僕に安心感を与えてくれているような気がする。
大げさにいったら、彼の言葉を通して、僕が大切だと思うことに気づくことができる。
生きとし生けるものは、「生きていていいに決まっている」
— 山田ダリ明広 (@pura4vida7) 2018年1月11日
じんわりくる。力ある言葉だなぁって。
人に出会うことの最大のメリットは、「生きていることを確認する(できる)こと」
僕の好きな植物とか生き物の"ある"とか"いる"ことを認識することのメリットも、同じことなんじゃないかと思ってる。 https://t.co/wUU65fi53X
いろんな情報やいろんな人たちの生き方を見ていくと、僕の忘れかけていた熱さみたいなものが垣間見える瞬間がある。そういう熱さを、僕は今大事にしたい。
最近わかったことは、自分は、出し惜しみしたくないと思っているということだ。
自分を楽しませることに出し惜しんでいる自分をダサく思う。
だから、せめてこのぐちゃぐちゃした頭の中を、このブログを通して出していけたらと思っている。
自分をもっと出していこうと思う。
改めて、ダーリアンダイアリーをよろしくお願いします。
8/1 @散歩
ミズキの実の上の方が 赤くなり始めた。
相変わらずに、川の横は涼しくて気持ちのいい匂いがする。風と音と匂いに包まれる。
ヨモギも僕の背丈よりはるかに高くなってきた。
今日の風と日光は、寝起きで少し火照った僕にはとてもちょうどいい感じだ。
赤とんぼの赤。太陽の光を背中から浴びて、濃く、どこか"透明感という言葉の響き(いわゆる透明では無いがピュアな感じ?振動とか響き)"を感じさせる。
写真にしてしまうと、陳腐になる気がするし、言葉にしても、そうなるときがある。要は納得できるかどうかだ
ここは、もっと努力したいところ。
田んぼに若い栗の実が沈んでいた
水滴を捕まえた蜘蛛
蜘蛛の巣に捕まった水滴
ウツギの実は、赤くなるやつは赤くなり、膨らむやつは膨らんで、枯れて行くやつは枯れていった
まだオタマジャクシが泳いでいて、どこか安心する自分がいた。
いろんな色、形、拡がり方を持つヨモギがいる。赤やオレンジに紅葉したもの、葉を一枚ずつつけるもの、四股になって伸びていくもの、青みを帯びた、強そうなもの。
いろんなやつが、いるんだ。
僕は「しゃがみ込んで初めて見える世界」が好きだ。
歩いてちゃいけない、そう思って、そう身体が反応したみたいに僕はしゃがんだ。頭で考えるより、身体が先に反応した。
しゃがみこむことで、同じ目線になれて、いろんなものと出会っていく。
君はフキだ!まだ土から顔を出したばかりのフキを見て、心の中で発見した喜びとともに叫んでしまった。けれど、彼のこれからの未来、可能性を決めつけ、他者の僕から未来を提示?してしまう、そう思ってしまうことに、何か違和感を覚えた。
僕も、嫌だからだろう。君は未来の科学者だ!とかなんとか言われても、嫌だっ!となる。もっとわからないものに満ちていてほしいと、そう思っているからだろうか。
だから、僕は言い直す。
君はきれいだ 。
こうなってしまったら、もうなんというか、そういう世界に入ってしまう。
目に入る全てが、愛おしくなる。もちろん僕も同じくらいに。僕はそれを浴びるだけの、人になってしまうみたいだ。
セリの茎の模様が好きだ。茎が三又になって、その養分とか水とかが流れ渡るようなその拡がりが好きだ。それを僕はうまく言葉にできない。だけど、たとえそういう時の言葉があったとしても使いたく無い。そういう感じの"好き"だ。
すごく葉っぱはかっこいいけど、こんな美しい花を咲かすのか!そういうギャップとかに、弱いかもしれない。
なんて甘い色をしているのか。
なんてちょうど良い葉っぱ、それから花、茎、芽、色、かたち、模様、揺れ方光の受け取り方をしているのか。
なんで、ちょうど良いと、感じてしまうのか。
深い、人間のシワと同等の深みを持つ。
全く生き方や時間は違うけど、深みは同じようなものを持っていた。
地衣類にばかり目がいっていたが、
木自身の肌に触れた。どんな質感をしているのか、柔らかさ、暖かさ、冷たさとか。木肌と水が混ざるような、湿気をまとい、柔らかさを持ち、そこにいてくれる。次はどんなものが、君と僕との間で起こるのか。
シダが真上を向いて、伸びている。
いつも垂れてるイメージだったから、新鮮で、違う一面をみれた気がして、嬉しくなる。
地衣類に目をやるときに、僕はなぜだか呼吸が変わる。ゆっくりと、呼吸をしてしまう。
きのこ、こけ、ちい
この木を飾り彩るものに、なぜだか惹かれる。
もう8月か
7/19メモ 東京から帰ってきて
一個一個が、食事や散歩、水汲みなどが、本当に良すぎるというか。
彼ら の存在を感じて、その中で食べている、歩いている、水を汲んでいる。
はぁって。
土を踏むこと、匂いに包まれること、太陽を浴びること、冷気を感じること、鳥の声川の音を意識すること、草木が揺れていること、光を浴びていること、空があるということ。
そういうことに、意識を向けられるということ。
自分の経験と、そこで起こっていることの化学反応。
これがオリジナリティになる。大切にしたい部分。
であるから、まずはその起こっていることを認識する、あることを認めることが、大切になる。
拡がり (写真多め)
木
柳の木を見上げていたら、なぜだか急に笑顔になってしまって、込み上げてくる感情を認識した。愛おしさのようなもの。触らずにはいられなかった。
ぼくと柳との関係が、また1つ生まれだ日だった。
花
いろんな葉っぱが顔を出し、それに花がつき、気づいたら実がなっている。
君は、こんな花をつけて、こんな実をならすのか!って、ほんの少し知れた気がして、嬉しくなる。
1日の間に大きくなるものや、全然変化がないもの。
もっと彼らと、時間を共にしていこうと思う。
花は綺麗だ。花には、いつの間に咲かせたんだ!とか、まだ咲かないのか!とか、そういうことを思わされる。そして、どんな花でも美しいと思ってしまう。
だけど、花だけが美しいのではないと思う。なんていうか、その植物の成長と共に形や表情を変えていく様や、その流れとか、露をつけたり夕暮れに染まったりする様、てんとう虫に歩き回られるヨモギの姿の様な、他の生物との関係によって在りようが変わる様など、彼らの生、営み自体が、美しいと思う。
僕にとって、君たちがいることが、美しいことなんだ。
自分を含めて、美しさがある。そんな気がした。
自分の中の花
四方八方に葉や根を拡げ、四方八方にタネを飛ばす。この拡がりはとても美しいと思う。その拡がりが、僕にとって広義の花だと思っている。地衣類も、そうなのかもしれない。
だから僕の絵は、花のような草木のような、拡がるもの、つまり広義の花、僕だけの花がモチーフになっているのだと思う。
僕は絵を描く行為の中で、拡がりを描きたいんだと思う。
大好きな歌 花~すべての人の心に花を~ が聞きたくなる。
心の中に〜心の中に〜花を咲かそうよ〜♪
明るく広く
僕の名前は明広。
明るく広い心をって、両親からもらった名前。これが、生まれてから史上最高のプレゼントだと思っている。
すごく自分の名前が好きだ。
恒星が光るように、明るく暖かく、広がっていく氣がして好きだ。
爆発してるみたいな、花のようだ。
宇宙は真っ暗が広がってきた。
明るく広がっていくものは、なんなのだろう。探していきたいなって、思っている。
明るく広い心も持ちたいし、
明るく広がっていきたい。
明るく広い何かを、僕を、追っていきたいと思う。
明広になりたい。明広でいたい。
僕が思う、明るく広いものを、生きたい。
僕は拡がりに興味がある。
今の暮らしとあれやこれ
メモを取ってあったのを、ざっくりと乱暴に書いてみた。
今の暮らし 6/15
僕は今岩手県のとある土地に住んでいる。湧き水からなる川と森に挟まれていて、小屋や畑、田んぼ、池、林、藪があるような、そんな環境だ。
大学を卒業して、縁あってここに来た。
就職もせずに、フラフラ迷い込んで来た。なぜ就職しなかったかというと、したくなかったから。素適な、僕にあった会社などは探せばいくらでもある気がする。けど、しなかった。何か(経済?お金?)を回していくことに、面白みを感じなかった。自分にとって、日本、世界、地球にとって、何かいい流れが生まれること。それが僕にとっては面白いことなんだと思う。
お金については、僕はまだ考えられていない。生活するためには、少なからずお金が必要なのは、たくさんの人から言われるし、僕もそう思う。実際、お金は便利だ。あるといい。ただ、自分でそれを生んでいくとなると、うまくできない。アルバイトもあんまりいいなって感じた職場はない。数えるほどしかないけど。
お金のためにとかではなく、やってることにお金がついて来てくれたら、嬉しいなと、能天気に思っている。今はほぼほぼ貯金はない。
僕が作ったフォトブックのドネーションと、先日のアースデイにアーティストとして参加した謝礼+ワークショップでいただいたドネーションだけ、ある。
あとは、僕が描いている絵を何かしらで貰っていただいたら、お金が増えるかもしれない。
普段の生活は住むところと食べ物を提供してもらっている。有難い。
こんなことをしていると、いろいろ感じたり考えたりする。そういうのをダーリアンダイアリーには書いていきたい。
ちなみに、今日思ったことは、ここは情報が多すぎるということ。
僕が弱っている(と思っている)ときには、まわりの存在にうわぁーってなる。僕が僕のことを頭で認められていないとき、1人になりたいのに、1人になれない様なものだ。人はこの場をエネルギーが強すぎると言うかもしれないが、そんな感じになる。
(生命の)存在を認識したくないと思う。でも、僕は漠然とここにいる。この土地の活気に身を包まれることを選択している。
でも、どんだけ落ち込んでいても、嫌とは思えない小川の流れる音や、鳥の声虫の声、風の音がしてくる。今この瞬間にいられることが、落ち込みなんかを遠退ける。
そんな風に、過ごしている。
隙間を生きていく?
大豆や陸稲を植える時に、すごい数のミミズが出てるくる。
小さい多足類とかミミズとか、彼らは土に吸い込まれる様にしていなくなる。それをみて、彼らにとってはそこに隙間があって、潜るあるいは隙間を進むのではないかと思った。
隙間を生きていく…
僕も同じなのかもなと。
第三者からしたら、道ではないところに、僕は隙間を見出し、そこに潜るあるいはそこを生きようとしているのかもしれないと。
人と同じ様になりたくない感はずっとあって、誰かが同じこと(行動だけでなく)をしていたら、それをやりたいなんて思わない。それに似た何か だったりする。
似た様なものの隙間を、進みたいんだと思う。
...うーん、
いや、そうじゃないんだ。そんなことどうでもいい。僕は僕のど真ん中を生きていきたいんだ
なんか、この葉っぱのように生きたい。
いただきますという言葉 6/18
僕はいただきますをする時に、たまに長く瞑想をする時がある。
いろいろなことを考えたり、無心になったりなんだけど、最近よく考えることがある。
それは、食材となったものは全部が全部生き物であり、彼らの命を、生きたであろう時間を、僕のこれからのエネルギーとしていただくことになる。そして、そのエネルギーを、僕はどう使っているのか、どう使っていきたいのかということ。そんなことを考える。
今僕は、岩手のとある土地で、ろくにお金も稼がずに生活している。最近は絵を描いている。こんな僕でいいのだろうかとか、こんなエネルギーの使い方でいいのだろうかとか、思ってしまう。何かもっと…って。
別にやってることがダメとかじゃなくて、彼らに恥じないように、やってることと自分自身に自信を持てたらと思う。今は探している感覚がある。言い聞かせるように、問い続けられるようにしたい。
僕は人間だから、そう考えてしまう。
彼らの命を僕の命(エネルギー)として使うのならば、どうせなら地球をもっと素適と思えるような、みんなで思えるようなことをしていきたい。地球からいただいた生なのだもの、地球に生命に、渡していきたい。
『あなた達の命を、私たちの命として、いただきます』
徳島県神山町で教えてもらった、いただきますの言葉。
まさしくそうだ。
けれど、言葉にすることで、意味を持たなくなる気がしてならない。感じたものを言葉にすることに意味があるのではと思う。
つまり言葉を口に出すだけでは、あまり意味のあることでない気がする。
想いが乗っていないからなのかな。
例えば、"いただきます"のフレーズとして言葉が存在していて、それを言うだけでは違う気がする。別に正解がある話ではないのだけれど、僕は、できるだけ"言葉"に、自分の思いを込めて、あるいは自分の思いがこもった"言葉"を使っていきたいと思った。
ねむいな。おやすみ。
みどり
日に日に姿を現してくる数えきれない緑色を目にし、僕はどうしようもなくなる。
何もできない僕自身に対しても、どうしようもなくなる。
絵だけは描こうと思った。
メモ 2017 6/5
僕は、吹っ切れたいのかもしれない。
僕は好きな人がたくさんいる。
比較とかもなくて、素敵な人が、愛おしいと思ってしまうような人が、たくさんいる。たくさん出会えて来た。なんて喜ばしいんだろう。好きになる行為は、とっても気持ちが良いのもあるし、本当に素晴らしいことだと思っている。これは、僕の中ですごく大切なこと。好きな人は、これからもどんどん増えていくのだろう。好きな人は好きな人のままで、ずっと僕の中に存在していて欲しい(生きていて欲しい)。そんなことを思う。
いま特に好きな人は、付き合っている人がいる。それらをSNSで見てしまう時、すごく、心がぎゅっと、狭くなるようになる。喉が痛くなる。
けど、すぐにそれは変化して、モチベーションに変わる。はずなんだけど、今回は変わらないかも。そういう好きだったみたいだ。もっと、この気持ちを、一言に言えば、悲しい?みたいな気持ち?んーもう、一言では言えないけど、こういう気持ちを僕に叩き込みたい気がした。
もっと、絶対的な何かで、僕の行く手を遮って欲しいのか。そっちの方が、いい気がするんじゃないか。今までの熱を、一気に冷やしたい。蒸気とともに、シューって空気に溶けて欲しい。それを、感じたい。
でも、感じたくない。でも
いま僕は、吹っ切れたいのかもしれない。
今日はもう1つ吹っ切れたことがあるから、そのノリなのかもしれない。
ただ、僕はあの人が好きだ。けど、好きだからこそ、離れたい。離れないと、なんかもう、キツい。
あなたの幸せを、心から祈りたい。けどその前に、僕の幸せを心から祈りたい。いや、掴みにいきたい。
丸裸な生身の僕になり、誰のものでもない、誰も愛そうとしない僕が、どんな僕なのか知りたくなってきた。
僕は僕がわからない。
でも一生わからなくていい。
その代わり、ずっと僕と一緒に生きたい。
はぁ