拡がり (写真多め)
木
柳の木を見上げていたら、なぜだか急に笑顔になってしまって、込み上げてくる感情を認識した。愛おしさのようなもの。触らずにはいられなかった。
ぼくと柳との関係が、また1つ生まれだ日だった。
花
いろんな葉っぱが顔を出し、それに花がつき、気づいたら実がなっている。
君は、こんな花をつけて、こんな実をならすのか!って、ほんの少し知れた気がして、嬉しくなる。
1日の間に大きくなるものや、全然変化がないもの。
もっと彼らと、時間を共にしていこうと思う。
花は綺麗だ。花には、いつの間に咲かせたんだ!とか、まだ咲かないのか!とか、そういうことを思わされる。そして、どんな花でも美しいと思ってしまう。
だけど、花だけが美しいのではないと思う。なんていうか、その植物の成長と共に形や表情を変えていく様や、その流れとか、露をつけたり夕暮れに染まったりする様、てんとう虫に歩き回られるヨモギの姿の様な、他の生物との関係によって在りようが変わる様など、彼らの生、営み自体が、美しいと思う。
僕にとって、君たちがいることが、美しいことなんだ。
自分を含めて、美しさがある。そんな気がした。
自分の中の花
四方八方に葉や根を拡げ、四方八方にタネを飛ばす。この拡がりはとても美しいと思う。その拡がりが、僕にとって広義の花だと思っている。地衣類も、そうなのかもしれない。
だから僕の絵は、花のような草木のような、拡がるもの、つまり広義の花、僕だけの花がモチーフになっているのだと思う。
僕は絵を描く行為の中で、拡がりを描きたいんだと思う。
大好きな歌 花~すべての人の心に花を~ が聞きたくなる。
心の中に〜心の中に〜花を咲かそうよ〜♪
明るく広く
僕の名前は明広。
明るく広い心をって、両親からもらった名前。これが、生まれてから史上最高のプレゼントだと思っている。
すごく自分の名前が好きだ。
恒星が光るように、明るく暖かく、広がっていく氣がして好きだ。
爆発してるみたいな、花のようだ。
宇宙は真っ暗が広がってきた。
明るく広がっていくものは、なんなのだろう。探していきたいなって、思っている。
明るく広い心も持ちたいし、
明るく広がっていきたい。
明るく広い何かを、僕を、追っていきたいと思う。
明広になりたい。明広でいたい。
僕が思う、明るく広いものを、生きたい。
僕は拡がりに興味がある。
今の暮らしとあれやこれ
メモを取ってあったのを、ざっくりと乱暴に書いてみた。
今の暮らし 6/15
僕は今岩手県のとある土地に住んでいる。湧き水からなる川と森に挟まれていて、小屋や畑、田んぼ、池、林、藪があるような、そんな環境だ。
大学を卒業して、縁あってここに来た。
就職もせずに、フラフラ迷い込んで来た。なぜ就職しなかったかというと、したくなかったから。素適な、僕にあった会社などは探せばいくらでもある気がする。けど、しなかった。何か(経済?お金?)を回していくことに、面白みを感じなかった。自分にとって、日本、世界、地球にとって、何かいい流れが生まれること。それが僕にとっては面白いことなんだと思う。
お金については、僕はまだ考えられていない。生活するためには、少なからずお金が必要なのは、たくさんの人から言われるし、僕もそう思う。実際、お金は便利だ。あるといい。ただ、自分でそれを生んでいくとなると、うまくできない。アルバイトもあんまりいいなって感じた職場はない。数えるほどしかないけど。
お金のためにとかではなく、やってることにお金がついて来てくれたら、嬉しいなと、能天気に思っている。今はほぼほぼ貯金はない。
僕が作ったフォトブックのドネーションと、先日のアースデイにアーティストとして参加した謝礼+ワークショップでいただいたドネーションだけ、ある。
あとは、僕が描いている絵を何かしらで貰っていただいたら、お金が増えるかもしれない。
普段の生活は住むところと食べ物を提供してもらっている。有難い。
こんなことをしていると、いろいろ感じたり考えたりする。そういうのをダーリアンダイアリーには書いていきたい。
ちなみに、今日思ったことは、ここは情報が多すぎるということ。
僕が弱っている(と思っている)ときには、まわりの存在にうわぁーってなる。僕が僕のことを頭で認められていないとき、1人になりたいのに、1人になれない様なものだ。人はこの場をエネルギーが強すぎると言うかもしれないが、そんな感じになる。
(生命の)存在を認識したくないと思う。でも、僕は漠然とここにいる。この土地の活気に身を包まれることを選択している。
でも、どんだけ落ち込んでいても、嫌とは思えない小川の流れる音や、鳥の声虫の声、風の音がしてくる。今この瞬間にいられることが、落ち込みなんかを遠退ける。
そんな風に、過ごしている。
隙間を生きていく?
大豆や陸稲を植える時に、すごい数のミミズが出てるくる。
小さい多足類とかミミズとか、彼らは土に吸い込まれる様にしていなくなる。それをみて、彼らにとってはそこに隙間があって、潜るあるいは隙間を進むのではないかと思った。
隙間を生きていく…
僕も同じなのかもなと。
第三者からしたら、道ではないところに、僕は隙間を見出し、そこに潜るあるいはそこを生きようとしているのかもしれないと。
人と同じ様になりたくない感はずっとあって、誰かが同じこと(行動だけでなく)をしていたら、それをやりたいなんて思わない。それに似た何か だったりする。
似た様なものの隙間を、進みたいんだと思う。
...うーん、
いや、そうじゃないんだ。そんなことどうでもいい。僕は僕のど真ん中を生きていきたいんだ
なんか、この葉っぱのように生きたい。
いただきますという言葉 6/18
僕はいただきますをする時に、たまに長く瞑想をする時がある。
いろいろなことを考えたり、無心になったりなんだけど、最近よく考えることがある。
それは、食材となったものは全部が全部生き物であり、彼らの命を、生きたであろう時間を、僕のこれからのエネルギーとしていただくことになる。そして、そのエネルギーを、僕はどう使っているのか、どう使っていきたいのかということ。そんなことを考える。
今僕は、岩手のとある土地で、ろくにお金も稼がずに生活している。最近は絵を描いている。こんな僕でいいのだろうかとか、こんなエネルギーの使い方でいいのだろうかとか、思ってしまう。何かもっと…って。
別にやってることがダメとかじゃなくて、彼らに恥じないように、やってることと自分自身に自信を持てたらと思う。今は探している感覚がある。言い聞かせるように、問い続けられるようにしたい。
僕は人間だから、そう考えてしまう。
彼らの命を僕の命(エネルギー)として使うのならば、どうせなら地球をもっと素適と思えるような、みんなで思えるようなことをしていきたい。地球からいただいた生なのだもの、地球に生命に、渡していきたい。
『あなた達の命を、私たちの命として、いただきます』
徳島県神山町で教えてもらった、いただきますの言葉。
まさしくそうだ。
けれど、言葉にすることで、意味を持たなくなる気がしてならない。感じたものを言葉にすることに意味があるのではと思う。
つまり言葉を口に出すだけでは、あまり意味のあることでない気がする。
想いが乗っていないからなのかな。
例えば、"いただきます"のフレーズとして言葉が存在していて、それを言うだけでは違う気がする。別に正解がある話ではないのだけれど、僕は、できるだけ"言葉"に、自分の思いを込めて、あるいは自分の思いがこもった"言葉"を使っていきたいと思った。
ねむいな。おやすみ。
みどり
日に日に姿を現してくる数えきれない緑色を目にし、僕はどうしようもなくなる。
何もできない僕自身に対しても、どうしようもなくなる。
絵だけは描こうと思った。
メモ 2017 6/5
僕は、吹っ切れたいのかもしれない。
僕は好きな人がたくさんいる。
比較とかもなくて、素敵な人が、愛おしいと思ってしまうような人が、たくさんいる。たくさん出会えて来た。なんて喜ばしいんだろう。好きになる行為は、とっても気持ちが良いのもあるし、本当に素晴らしいことだと思っている。これは、僕の中ですごく大切なこと。好きな人は、これからもどんどん増えていくのだろう。好きな人は好きな人のままで、ずっと僕の中に存在していて欲しい(生きていて欲しい)。そんなことを思う。
いま特に好きな人は、付き合っている人がいる。それらをSNSで見てしまう時、すごく、心がぎゅっと、狭くなるようになる。喉が痛くなる。
けど、すぐにそれは変化して、モチベーションに変わる。はずなんだけど、今回は変わらないかも。そういう好きだったみたいだ。もっと、この気持ちを、一言に言えば、悲しい?みたいな気持ち?んーもう、一言では言えないけど、こういう気持ちを僕に叩き込みたい気がした。
もっと、絶対的な何かで、僕の行く手を遮って欲しいのか。そっちの方が、いい気がするんじゃないか。今までの熱を、一気に冷やしたい。蒸気とともに、シューって空気に溶けて欲しい。それを、感じたい。
でも、感じたくない。でも
いま僕は、吹っ切れたいのかもしれない。
今日はもう1つ吹っ切れたことがあるから、そのノリなのかもしれない。
ただ、僕はあの人が好きだ。けど、好きだからこそ、離れたい。離れないと、なんかもう、キツい。
あなたの幸せを、心から祈りたい。けどその前に、僕の幸せを心から祈りたい。いや、掴みにいきたい。
丸裸な生身の僕になり、誰のものでもない、誰も愛そうとしない僕が、どんな僕なのか知りたくなってきた。
僕は僕がわからない。
でも一生わからなくていい。
その代わり、ずっと僕と一緒に生きたい。
はぁ
気持ち良さと切なさ
踊子草が、黄色くなっていた。
日中もカエルの声がする。
とても嬉しい気持ちになった。
お昼にも彼らの存在を確認できる、
認識できること。
それが僕の中で彩りに変わり、
嬉しく思ったのかな。
桑野葉っぱは本当に不思議な形だ。
この変化を見ていたい。
草刈りをして、代掻きをしたお山。
それもまた美しかった。
気持ち良いのが当たり前で、
その先の気持ち良さを探そうとしている僕。
なんて贅沢なのだと思ってしまう。
風や小川の流れる音、鳥のさえずり、草木と太陽、桑の実の形、藤の紫、育つ稲。
空を見上げれば、岩手山が少し顔を出し、青空に映える雲が壮大だ。
美しくって、たまらない。
こうやってその場に立ち止まるだけで、
僕はたまらなくなる。
立ち止まるからこそ、
歩きたい方向がわかる気がした。
僕は座り込む。
ミクロな視点がたくさん見えてくる。
気づかなかった存在や営みに出くわす。
これも僕には大切なこと。
でも、なぜか切ない。
photo by dali
なんだかいい日だったです
ハルジオンが咲いていた。ハルジオンって僕らが呼んでるだけで、君たちの本当の名前は、名前の概念すらないのかもしれず、言葉とは違う何かを生きているのかもしれないけれど、僕たち人間の視点で、ハルジオンって呼ぶね。
君は西洋ナバナ。西洋から来たのかな?起源なんて、ごちゃまぜでもいいのかもね。いい悪いなんてないのかもね。
西洋タンポポだ。君もか。クマザサもいるね。ギシギシも、名前のわからない君もいる。たくさんの生き物が僕の周りに存在していて、目には映らない存在を想像するだけで、ワクワクする。
この土なんかも、生物だらけなんだよな。
この土は昔の人が田んぼとして作ってきた土だとすると、僕らもなんら生物と同じというか、景観や生態系を作っているんだなって、嬉しくなるよ。(人間は破壊してる方だと思ってしまうだろうけど。思わないのもどうかと思うけど。)
そして、この生物、生命たちがいて、僕がいて、そんな今は最先端なんだな。地球が生まれてから最先端な今を、共に生きているんだよね。すごいことだと思うんだよね。でも、僕も彼らも、死んでしまう。死ぬことは、当たり前のこと。唯一の事実。僕ら側から見た事実。
もっと先の未来では、時間なんて移動できるのかもしれないけど。
僕らは、今という時間を積み重ねて、この時代に、彼らと一緒に死んでいくひとつの存在なんだよね。それは素晴らしいことだと思う。けど、なんだか切なさを感じる。でも、その切なさを、喜びたいと思う。
僕らの生きる目的は、なんなのだろうか。今の僕の中の答えは、たくさん感じること。幸せになるとか、ちっぽけだ。そんなの幸せに決まってる。そんな言葉なんかにしないで、もっとその「幸せ」とか、「愛」「夢」「喜び」とかの中に詰まったものを、その言葉を超えて、感じたい。それに落ち着くのは、もう当たり前のことなんじゃないかな、今の僕的には。だから、その中の、その先の何かわからないものを、掴みにいきたい。そして、何度も愛に辿り着きたい。それまでとは違った僕だけの愛
【今日出会ったもの。】
田んぼ見てたら虹に気づいた
柳絮によって地面がふかふかになる。
彼の死に様はとてもかっこいい。
もやもやふつふつ
しみじみと
三日間共に過ごした人がお山を出た。
あまり意識はしていなかったものの、別れの時間が近づくにつれ、僕は寂しさを漂わせていたらしい。
しかしながら、僕はこの「1人山の小屋にいる」ことを、この状況を、とっても嬉しく望んでいるような気がしてしょうがない。自分にとって、この生活はすごく大切な時間だと、どこか深いところで、あるいは真ん中、芯のところで感じているからなのだろう。
いつからか受動的な僕は、よく優しいと言われる。それは、僕はあまり否定しないからなのだろう。良い悪いなんて人それぞれだと思っていて、そこは共感だったり、ただ認識することで、良い悪いを感じない。というか、それを含めて、広義な意味で良いと感じてしまう。
この感覚をいい意味で壊したい。
また、僕は人の素適なところをみつけるのが得意なのかもしれない。いや、そもそも、素適な人が周りに多いのかもしれない。
どっちにしろ、そう感じてしまう今は、とても幸せに溢れているなあ思いながら、いや、そうじゃないんだと、モヤモヤを抱えている。
田んぼの水路を眺めながら、オタマジャクシの様子を見ていた矢先、目の前が真っ白に輝いた。桜だった。
標高の高さなどで、待ちに待ったお山の桜は、ようやく咲き始めていた。
凛としていて、僕は1人じゃないことを、教えてくれた気がした。
たくさんの生命に満ち溢れ、
今日も、彼らとの時間を感じていく。