刻まれていく出会いと時間
僕はメモをよくとる。
昨日感じたこと、感じたままのメモを、生々しく残しておく。
夜、岩手の紫波サービスエリアからヒッチハイクし、有難いことに3台で、昨日名古屋に着いた。
名古屋駅から8キロほど歩き実家に着いた。そんな日のメモ。
優しさのシャワーを浴びたような、そんな時間だった。#ヒッチハイク
思った通りにやれ!!とことんやれ!そうやって、背中を押してくれる人に出会える。本当に、ありがたい。
愛ちゃんが、素適な人と出逢った。いいね!!あなたの僕に向けていた素適な笑顔が、そこに見られて嬉しく思う。
僕は、燃えているか
僕の命は、燃えているか
燃やしていこう
表現していこう
腹からよじれ蠢(うごめ)かせ、粉々に、強固に、僕で在れ
愛する喜びを、愛を超えて
僕の世界を、僕のものに、僕に狂え。
ああ、僕なんていなくなれ
僕の薄れゆく気持ちとともに、彼女の気持ちも薄れゆく。そんなものさ。
「自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ」
ぼくは守れているだろうか
いや、壊して、作って、穴を開けて、舐めてみて、ぼくの感受性を解き放す 否、解き放っている
よりリアルに、マジな、オレを
もう一度ぼくに投げ掛けよう。
そのまま行け。突っ走れ 嘆け苦しめ愛しまくれ
そんなことを思う、名古屋、伏見間。
(今も不思議な気持ちで、嬉しさや、自分と向き合うことを、余儀なくされる感、そんな不思議な感覚を味わっている)
額縁屋の女性と仲良くなった。
仲間とともに夏は会津でインスタレーションをしてるらしい。美しい女性だった。
(この絵の額縁を買いに)
都会に佇むケヤキの木
僕は白川公園のケヤキの様に生きられないなって思った。思ってしまった。
こんな都会の真ん中を、生きていくこと。
堂々と生きている様に見え、何か尊敬の眼差しで眺めていた。
僕はそれを避けているのか。だから岩手にいるのかもしれない。
ホームレスのしんどうさん。
あったかいですね!そうやって始まった会話は、とても自然で心地よかった。
今ある生活を、しあわせであると言っていた。
どこかを見つめるその目は、何か美しいものをみているかの様に澄んでいた。
夕陽に染まるケヤキが、とても綺麗だった。
しんどうさんは、雨の日はこのベンチで生きているらしい。
このベンチの後ろ側には、楽園が広がっていた。表現者が住んでいた。
今の僕には、今日のたくさんの出会いが刻まれている。
生命の輝き
(生命の)存在を認識する という行為、営みは、豊かさにつながると思っている。豊かな今を生きることにつながる。そう思っている。
身の回りに目を向けると、生命に溢れ、たくさんの宇宙がそこにあることに気づく。それぞれの事情や、然らしむるさま、そんなものが、存在美となって僕の前に現れる。
「地球の素晴らしさは生命の輝きにある」
レイチェル・カーソンの言葉で、今ど真ん中に好きな言葉だ。
僕はたびたび、生命の存在を認識したあと、意識が地球へと広がっていくのを感じる。
僕も彼らと同じように今生きている。たくさんの生命に囲まれて、生命だらけの地球の上に、生命の営みにより、今生き、生かされている。
そんなことを考えると、どうしようもないくらい今が輝かしくて、嬉しくて、一瞬にして僕の見る世界は彩り、そして愛に溢れていくような感覚を覚える。地球に今いる喜びを、噛み締めているように。
そして、地球という大きな生命として、ひとつである。そう感じずにはいられない。
このような感情(状態)は、センス・オブ・ワンダーの例えである『喜び以前の純粋状態』ならぬ、『喜び以降の純粋状態』に包まれているということだと思った。
感性を認識し、僕の知性が入り混じった、その先の状態。
僕らは言葉の生き物であるので、感覚を"喜び"のような言葉に当てはめてみたけれど、当てはめたところで意味をなさない、必要のない、そんな状態。
喜び以前以降どちらも、僕は心の底から大切にしていきたい。そう改めて思った。
地球の素晴らしさは、生命の輝きにある。
僕らも、輝き合う世界へ
#地衣散歩 @安曇野
安曇野で出会った地衣類を紹介します。
生活感丸出しなプライベートを覗いてしまった感じ。
荒れ果てた地球みたい。けれど、そこにも美しさがある。今を咲き乱れる花 そんな感じ。
繊細な造形美。
海の中みたいな、星雲みたいな、そんな姿に惚れる。
彼らが創りだす世界、そして彼らに、憧れのようなものを抱く。
Life is Art .
生きているということ。
何か人工的で、少しもやもやしてしまう。なぜだろう
"美"という言葉を超えた
いや、"美"という言葉以前のもの。
それは センスオブワンダー という感性
#喜び以前の純粋状態
彼らの世界
#色違い #双子
ユニバース
ここは宇宙
彼らの世界
雨が降ると、より生き生きするのだろう。そんな景色を彼らを、またいつか見にいきたい。
壁面緑化
自然な味わいが落ち着く。
黄色い侵略者たち
"色を持つ"ということに、誇らしさを感じた。確実に色付けていく彼らの営み。
僕が地衣類を探して散歩しているというよりは、地衣類が人間に見られている。そんなことをふと思う。
僕は安曇野がすごく好きです。
#地衣散歩
#地衣散歩 とは、 地衣類を探してしまう散歩のことです。
#地衣類 とは、藻類と菌類の共生体で、苔みたいな生き物です。
僕はなぜだか、地衣類が好きです。
はびこりというか、芸術性というか、まさに Life is Art を体現しているように思うのです。
自然は、存在しているだけでアートだと思うのですが、その存在を認識しない限り、アートではないのかもしれません。しかし、なぜだか地衣類の存在を、とても意識してしまう、認識してしまうのです。
僕は、彼らが創りだす世界、そして彼らに、憧れのようなものを感じます。
それがなんなのか、まだわからないし、わからなくてもいいようにも思います。
むしろ、わかること、つまり言葉で理解することは、何か陳腐に見えてしまうのではという恐れにつながり、わかりたくないとさえ思います。
しかし、誰かに伝えたいし共感もしたいのです。
だから、抽象度が高くなってしまうかもしれないですが、僕が感じたことを、言葉として咀嚼し、表現してみたい。しかし、その言葉に紛らわされず、そこに込められた何か目に見えないエネルギーみたいなものと一緒に、僕が伝えたいものを感じ取っていただけたら、とても嬉しいと思っています。