ふつう
将来に希望はない。
刻々と過ぎていく今があるだけで、なにもしないまま、死んでいきそう。
血がしびれを伴って抜けるような感覚。
かなしさとさびしさ。
そういう感情に支配されながら、来なくてもよかった朝を、なにもなかったかのように迎えるのだろう。
心に砂時計のように溜まっていく。
少しづつ少しづつ溜まっていく。
2019.1/14 📝
僕は中学生の時からノートやiPhoneのメモに今の気持ちみたいなものを書きなぐっている。僕のその場限りの感情を、書いて残しておかないと、すごく勿体無いようで、大切な感情を貯めておきたくて、書かずにいられなくなる。
僕による僕のための言葉。
言葉にして書いてみて初めて見える、認識できてくる感情。感情を言葉に変換した瞬間に解像度が粗くなってしまうけれど、ああ僕はこんなことを思ったのかと、その時の自分を文字という形に変換して見ることができるようになる。
そうせざるを得ない感情たちが、今にも身体の外に飛び出たがっている感情たちが、僕の中にはいる。 それと鉢合わさっていくことが好きになっていた。
今はもっと違う形で、絵だったり、歌だったり詩だったり、モニュメントだったりで鉢合わせられることができたら、いいのかなと思っている。
2019は出す年にできたらと思っている。
いろんな僕と出会えたらいいな。
2018.9/20
しっとりとした日
好き
自然に対して
僕らは自然に対して、人間のいいようにできる、管理できて制御できて所有できるという見方を知らずしらずのうちに持っていたり(そのような周り、環境下にいたり)、まず眼中になかったり、するように思う。
だからなのか、草刈りがされていなかったり、伸びたいように伸びていたり、放置された藪などを目にした時、嬉しく思う。僕らの生きている時間とは違った"自然の流れ"的なものに触れた感触があり、ああ、やっぱり僕らには彼らのことは理解できなくて、彼らの時間が存在しているんだ。とか、僕らはそろそろ思い上がるのも程々にしなくては!なんて思ったりする。
そしてそんな彼らと僕は同じ時間を共有していて、今ここで彼らと顔を合わせられることを嬉しく思う。
人は誰しも自分の世界というものに知らず知らずのうちに入り込んでしまうと思っていて、そんな中、彼らの存在を認識した時、自分1人の世界から抜け出せられるように思う。そしてそれは、同じ世界(時間、空間)を共有している感を生むと同時に、少しだけ世界に彩りを与えてくれる。
こんなことを思ったりする。
お米を作った話2
種の成長
種を蒔いた苗床は田んぼに浸ける。
暖かい空間にするために、ミニビニールハウスを作った。触覚をつけてみた。
大量に湧き出た湧き水を池を通して田んぼに落とす。できるだけ温めるために、ゆっくりゆっくり、ちょびちょびと。
お米が育つ。僕にとって、とても意味のある育ち。#ああ水 #稲 #稲作 #rice #nature #naturelovers #iwate
そしてお米は、ゆっくりゆっくりと成長していく。
とても嬉しい。
お山の土地では、お米作り以外にもいろんな体験する。それに伴い僕の未熟さを感じまくる日々が続く。
稲達の成長を見ながら、自分もゆっくり成長していけていたらいいなと思った。
気づいたらお米粒が稲っぽくなっていた。
代掻き
耕運機を使って代掻きをした。
ひたすら田んぼをドロドロになるまでかき混ぜる。自分もドロドロになる。しかしながら一種の瞑想のように、精神が静まる感覚があった。
今では珍しいけれど、この田んぼには裸足で入れる。だからなのかより田んぼに近づける気がした。足の裏から伝わる泥や石の形、質感、温度などは、なんとも言えない良さがある。特に泥から上がったあとの足裏のすーすー感はなんとも形容しづらい良さがある。
田んぼの景色
代掻きや田植え付近の田んぼには、田んぼらしく水が満たされる。水が張った田んぼには、夕焼けや星空、虹だって写った。
(下を向いて歩いていた時、田んぼの水面に変なものを発見した。ん?虹?空を仰ぎ見ると本当に虹(彩雲?)が浮かんでいた。)
田んぼに少しづつ僕の時間が入り込んでいく中、ついに田植えが始まった。
いつも見ていた景色に、僕が育て(育つのを見届け)植えた稲たちが馴染んでいた。
田んぼはいろんな景色をつくっていった
田んぼの景色と、僕の感情が入り混じる
田んぼに住むいきもの達
徐々に稲は成長し、知らない間にいろんな生き物が姿を現し始めた。
カエルから始まり、昔憧れたゲンゴロウやミズカマキリなど、"里山に住む虫"みたいなのに代表されるやつらと出会うことができた。
本当にいろんな生き物がいて、嬉しい。
いろんな生き物がいることは、僕には嬉しいことだと知った。
7/10メモ
イトトンボが羽化している。
ぱっと見8匹。
尻尾を出す瞬間は、つるっと?ごそっとの間のような感じで、結構力を使うんだろうなって思った。
そして、とてつもなく無防備だと思った。
殻を破るとき、つぎのステージに行くときはひ弱で無防備なのかもしれない。静かに待つ、時間に身をまかせるような姿。自分の呼吸はゆっくりと静かになっていた。
焦ってはいけない。
悠々と目の前を飛ぶ、他のイトトンボがいたとしても、目の前で飛び立って行ったとしても、焦ってはいけないんだ。グッと堪える。彼らには、この時間はどのくらい長いものなのだろうか。水中を覗くと、まだたくさんのヤゴがいて、顔を出そうとしている。その時を待つかのような容姿には、熱い眼差しを送ってしまう。僕だったら、どれだけ怖いのだろうか。
僕はとても緊張した、緊迫した田んぼを見たのは初めてだった。
目を離した隙に、一匹が飛び立っていってしまった。その姿?晴れ姿?ぼくが待っていた姿?を見逃した!!って思ったけれど、近くにもどっち来てくれて、今ぼくの目の前で羽を乾かしている。嬉しくなる。
橙色のイトトンボと、水色のイトトンボが、対面していて、まるで道で右に避けるか左に避けるかが重なってあわあわなっていふ人のようなすれ違い目撃した。笑ってしまった。
同じイトトンボ同士でも、見つめ合いながらぐわんぐわんした後にすれ違うから、挨拶みたいなものなのかと思った。でも、笑ってしまう。
コミュニケーションなのかもなーと思う。蛍の幼虫がいたり、ゲンゴロウ、オタマジャクシ、マツモムシなど、里山(≒田んぼ)の風景に出てくる生き物が、ここにいてくれることに、すごく嬉しい気持ちになる。ごめんねって気持ちも、そこにはある。(そういう田んぼが減少しているから)だからこそ、"絶望があっての希望のような"(もうちょっと言葉を出したい)、嬉しさが湧いて出た。
こういう、田んぼを、増やしたい!!
そう思った。
僕のちっちゃい頃、憧れていた里山。田んぼが、ここにある。生き物たちの時間が、たくさん見られるように、いっぱい彼らが生きられるように。
生きるとはどういうことか
など考えてしまう僕にとって、
ただひたすらに生を全うしている(と思われる) 彼らの姿は、刺激的である。
ヒントが隠されていそうで、彼らに答えを見出そうとしてしまう。
草刈りは辛いよ
この土地では除草剤などは使用していないため、いろんな草達が次第に広がっていく。芽吹きから見ていた僕にとっては驚きであり嬉しいことだ。そしてどれも美しかった。これを道の確保などのため、刈らないといけないのは、正直心が痛い。
田んぼも例外でなく草は生え、刈る方向性である。田んぼの中は主に、矢尻と呼んでいるオモダカやセリ、藻みたいなやつ、浮き草などが勢力をつける。
こいつらはどんな花を咲かすのだろうかと思うと、なかなか手ごわい相手になる。
しかしひょんなことから、このオモダカと藻(セリは川にもあり普通に食べている)を食べてみようか!という話になった。オモダカは炒め物、藻はモズクの酢の物風に。
イケました笑
田んぼでは厄介者な奴らを頂けるなんて!!すごい発見だ!!ということで草刈り兼収穫が流行りました。有難いことです。
ここでまた新たに思ったことで、田んぼは稲だけを育てるものではない!ということ。オモダカや藻、トンボ、ホタル、いろんないきものを育てる。そして稲以外にも食べられるものを育てていて、田んぼをまた1つ感じられた気がした。
ぼくも育っているのだろうか?
続く
太陽のもとで思う
今日はとってもいい天気
コーヒーを飲みながら、リゾートバイトで訪れている奥飛騨の寮の前で太陽を浴びている。
風も音も匂いも、僕を穏やかな気持ちにしてくれる。
僕はノートに今の気持ちをだらだら書くことが癖であり、それは中学の頃から続いている。
今日も太陽に誘われて手が動いた。
近頃(と言っても学生の頃から割と)よく思うことがあって、僕が大切にしたいことは、なんなのだろうか? ということ。
決めつけないで、ゆっくり探して行きたいと思っている。
最近ももっぱら この"大切なこと"を探っているみたいだ。
ノートに思いを書くことは自問であり、探る行為なんだろう。
ノートに書いた言葉を、残しておこうと思う。
あたたかい太陽のもと、良い休日を過ごしている。太陽が、あったかい。きもちがいい。本当に。こういうゆっくりした時間を過ごすことに、全力を使いたいと思った。
何か、緑とか空気とか太陽とか、香りや音、雨とか、そういうものを感じられる、機会をつくりたいと思った。カフェ的な空間ではなく、機会。生き急ぐことなく。決して同じではないけれど、同じように流れている今を。
ゆったりとした時間を、別に僕らがわざわざ提供することもなく、今そこにあるものを楽しめるような。
その心の持ちようが僕には大切で必要で、一緒に気持ちよくなったり悲しくなったり、落ち込んでみたり、自分から溢れる気持ちを感じ(楽しめ)られたら、良いだろうなぁって思う。
僕は好きな人がたくさんいるのだが、
好きな人とそういうものを感じられたら、振り切れてしまうだろう。もうそれで十分だと思ってしまう。
ああ、なんて最高なんだろうと思ってしまう。生きるっていいなって思ってしまう。想像だけでも…いい気がしてしまうほどに。
僕は身勝手だ。勝手に思い耽り、満たされている。こういう満たされ思いふける時間を増やしていけたら、態度にも現れて、いい感じにリアルな人と人との関係が築けるのではないだろうか?と少し妄想する。
僕の人生は本当に幸せである。
蟻や蚊や蜘蛛が僕の目に映る。
僕(だけ)の時間から、彼らと共にしている(生きている)時間に取って代わる。それが僕をもっと幸せにする。
僕は今、幸せを提示したい。
未来がどうであろうとも、「僕は今、幸せだ!」と叫びたい。
僕は今こう感じこう思い、ここにいる。そんなことを叫びたい。幸せを叫びたい。
作家 遠藤一郎さんのライブペイントでの「俺たちは生きてるんだ」って言葉(だと思う)を思い出した。
「僕はここだと叫ぶのさ」
大好きなMONGOL800 の Love song って曲の歌詞も思い出す。
Ricky-G は、「語りきれない日々を歌で記そうか」と言う。
僕は、この幸せな気持ちを何で記していこうか。絵や写真、言葉、いろんな表現方法で、僕の生を出していきたい。
出して出されて君を感じたい。僕を感じたい。
今を生きることを喜びたい。
共に喜べる仲間と、もっと出逢い、喜んでいきたい。そんなことを思う。
僕の気持ちを分かち合い、あなたの気持ちを分かち合う。そうやって、今を生きていることを喜びたい。
そういうことがしたい。それがいいんだ。それでいいんだ。
生きるとは、なんて最高なんだ
3/3
お米を作った話
4月からのお山生活で、僕はお米をつくっていた。このお米づくりを通じて、本当にたくさんの喜びを味わうことができた。なので今回はそのことについて書きたいと思う。
お山の土地では、耕作放棄地を再び田んぼにしてから10年目であった。無農薬無肥料で、自分たちが食べるぶんだけ育てる。育たなかったら買おう!を合言葉に始めたらしい。
僕は田んぼというものに昔から憧れを抱いていた。名古屋育ちで自然があんまり無かった&たまに行くキャンプなどの自然体験に特別な楽しさを感じていた、ということで自然が好きな自分にとって、田んぼはいろんな生き物がいる"魅力が詰まった場所"という印象だった。
当時カエルを捕まえることが好きで、田舎に遊びに行った帰り際、「カエルが呼んでる!!」なんて言いながら田んぼの前で駄々をこねていたらしい。
そんなこんなで、憧れだったお米づくりに期待しつつ、僕とお米(田んぼ)との日々が始まった。
昨年の片付け
お米づくりの最初に取り掛かったのは、昨年度のはせの片付けと、稲わらをいかつい刃物でジョッキンジョッキン刻んで田んぼに撒く作業。
特に稲わらを刻む時の手応えが気持ちよい。
そしてなにより断面がとても綺麗だった。
お米を育てる準備#稲藁 #藁 #稲 #米 #お米 #田んぼ #断面 #彩 #彩り #rice #green #colorful #nature #naturelovers #iwate
なんて綺麗なんだろうって、何度も思ってしまった。
また、微生物が分解して行く途中かなとか、土に還るのかぁとか、次のお米に繋がって行くんだろうなぁなどと想像し、その存在と、彼らが持つその流れに、美しいと思った。
美しさにはいろいろあって、できるだけ多くの美しさを感じられたら、なんて思った。
なんか陳腐に聞こえるかもだけど、"美しさ"の中身をちゃんと感じていきたいと思っている。
米粒を触る
昨年度のお米を種もみとして使えるものに分ける作業。
発芽しやすい種を見極めるものだ。
たらいに湧き水をいれ、塩をがばっと入れ、生卵がどのくらい浮くかで塩加減を確認して、軽い種を浮かせる。
なるほどーと感心しながらお米を触る。
浮いてしまった種が多くて、少し悲しくて残念な気持ちになった。
この種たちがどんな成長をするんだろうか!なんて思いながら沈んだお米を分けていく。
そんなに米粒を触ったことがないからか、そんな些細なことも新鮮で、実は嬉しかったのを覚えている。
種を撒く
これもまた楽しかった。
ふつうは育苗センターなどに任せるらしく、苗床をつくったりはしない。がここは違う。できるだけ自分たちの手でやるんだ。
土を敷いて水をかけて固めて、種蒔き機でチャラチャラ、パラパラして、覆土する。
だいぶ端折ったが、このパラパラとした音を僕は愛らしく思った。
湿っていて割と締まった土に種が落ちる小さな音。
一粒一粒が音を発して散らばっていく。
僕は変態なのだろうか、お米粒が奏でるメロディーを聴いて、無性に嬉しくなってしまう。
これはまだ言葉にできない感覚だが、新しいこの感覚を嬉しく思った。
今思えば、種一粒一粒にもちゃんと重みがあって、そのあたり前だけど実際体感しにくいものを感じられた喜び?頭ではわかるけど身体を通して感じること=体感できたことが嬉しかったんだと思う。
多分このとき感じた感覚に似ている。
君にも重みがあるんだと、ちゃんと目の前にいて、土や雪と関係しあっていること。それ故に僕の中で彼らの存在が色濃くなったこと。これがなんとも言えない嬉しさを生んだのだろうか。
続きは
お米を作った話 2 で🌾